GENOCIDE interview

それは衝撃的だったという言葉が一番相応しいのだと思う。

2000年10月28日、目黒Live Station、ついぞGENOCIDEを目の前で拝むことが叶った。

“拝む”とはいささか大袈裟であるが、頻繁にライブ活動をしているバンドとは異なり、活動ペースから考えても年に1回観れるかどうかといったところなのが事実であろう。しかも、東京でライブを行うのは活動停止する直前の90年以来10年振りなのだから、なおさらである。まさに“幻のバンド”であり“伝説のバンド”として、カルトなファンの注目を集めたそのライブ・パフォーマンスには、一挙手一投足を見逃すまいと熱い視線が注がれていた。私自身、GENOCIDEのライブ初体験という事もあるが、これだけの興味と期待を持ってライブに挑んだ事は久しく無かったかもしれない。80年代を通過してきた人が自然と備えているナチュラルでいてヘヴィ・メタリックなムーブ、アクション、ギターソロの際にネックに手をかざしマジックをかける仕草などは、その代表だと言えるかもしれない。ステージが進むにつれ、次第に頬の緩んでくる自分がいる。そしてラストナンバーとなった“Living Legend”のエンディングでは、メンバーがステージ中央に集まり、膝をつき、まるで呪いの儀式のようにネックを天に突き立て、クライマックスを迎えた。まるでステージ上のメンバーに視線が吸い込まれるかのように、「釘付け」とはこのような状況を指すのだろう。「やばい、これは是非話を聞かなくては…」、それがライブを見終えた時に真っ先に頭に浮かんだ心境だった。「折角やるならば、GENOCIDEの地元である福井まで出向いて行いたい」、そこまでなら普通なのだろうが、そこに遊び心が加わって、「どうせなら21世紀最初の日、2001年1月1日にインタビューを行いたい」と思った。これを本当に実行してしまうところが本誌の本誌たる所以であろう。我々に付き合って元旦早々から御協力いただいたGENOCIDEの皆様にはこの場を借りて感謝したい。とにかく、このバンド、一度でいいから機会があれば触れて欲しい。必ずや何か感じ得るものがあるはずだ。




※ このインタビューは、KABBALA#27(2001年冬号)に掲載したものです。




日 時:平成13年1月1日(月) 午後4時頃

場 所:福井・武生市内の食事処「ジャムハウス」にて

話し手:竹内 稔浩 (vo), 川上 晃一 (g), 本野 弘樹 (b), 服部 武 (dr) (GENOCIDE)

聞き手:杉浦 康司 (KABBALA'zine), 別府 伸朗 (火航田)




 (杉浦/以下S)まずは自己紹介からお願いします。

竹内:僕はGENOCIDEのヴォーカルの竹内稔浩です。

川上:ギターの川上晃一と言います。

本野:ベースやってる本野弘樹と言います。

服部:ドラムスの服部武です。宜しくお願いします。

 (S)このメンバーで言えば、活動再開後から服部さんが参加された事になるんですよね。

竹内:うん、そう思っていただければ良いと思いますね。

 (S)服部さんとはそれ以前から…。

竹内:やってたんですよ。ただ、名前はGENOCIDEとしてではなく違うバンドとして、ずっとやってたんですけど、またGENOCIDEとして活動したいなっていう事で。

 (別府/以下B)何故またGENOCIDEという名前で活動しようと考えたんですか。

竹内:GENOCIDE自体、解散はしてないんで。ただ単に活動停止状態だったからね。

川上:僕等は僕等で別バンドをやってましたしね。彼(本野)は彼で金沢でバンドをやってましたしね。別々に違うバンドを…。

竹内:活動停止中にみんなバンド自体は各々やってたんですけどね。で、「またライブでもやろうか」っちゅう話になって。丁度大阪から「GENOCIDEとしてやるんだったら、大阪で一回ちょっとやってくれんか」っちゅう事で、「じゃあやってみようか」って、やったんですね。

川上:佐古さんの御厚意でね。昔からお世話になってる人なんですよ。

 (S)それが98年8月8日・西九条Brand Newでのライブですか。

川上:あれが本当の復活ライブになるのかな。

竹内:4人でやってるんですよ。もう一人のギターの天谷はね、東京在住でね、その時はまだ参加してなかったんですけど。その時にBrand Newの店長さんが気に入ってくれてね。「このままやるんだったら、もう一回(ここで)やってくれ」って言ってくれてね、うん。

 (S)で、1年後にもまた大阪で。

竹内:そうそう、1年後にまた来る…来るっちゅうか、佐古さんがブッキングしてくれたんですけどね。で、地元ではやってたんですよ。

川上:地元では毎年1回は必ずやってたんですよ。

 (S)あ、そうなんですか。

川上:ええ、地道に(笑)。一応、取り敢えず地道にやっていたと。続けて。

 (B)じゃあ90年に活動休止とはなってても、地元ではやってたんですか。

川上:(90年の活動休止から)それから2、3年は別々にやってて、それからまたボチボチと年に2回ほど、3月、9月とやってましたね。

 (B)その時は4人でやってたんですか。

川上:その時は5人ですね。ギターだけ(天谷氏の代わりに)色々と代わったりしてましたね。結局最終的にはオリジナルに戻ったと。

 (S)では、古い話から遡っていきたいと思うんで、HPにあったバイオグラフィーを参照して進めていきたいと思います。まず、「79年に地元のレコードショップで天谷(g)と竹内(vo)が出会う」という事なんですが…。

竹内:そうですね。79年かぁ…(笑)そこまではちょっと記憶にないですけど、大体そんなもんでしょうね。

 (S)その時に結成したバンドがSHOCKというバンドなんですか。

竹内:いや、結成したんじゃなくて、それは元々地元にあったんですよ。これは僕等よりも…どのくらい上かなぁ、4つか5つくらい上の人達がやってた、地元では結構有名なバンドだったんだよね。それに声をかけられて、入ったっていう感じですね。天谷は先に(SHOCKに)入ってたんですよ、そこに誘われて。で、前のヴォーカルの人が辞めたんで、天谷が俺を紹介して、そのSHOCKというバンドに入ったんですよ。そこで2年くらい演ったのかな。で、そのバンドを辞めて…結構年齢差があるんでね、音楽の趣味とかも違う。自分等はやっぱり80年代のIRON MAIDENとかに凄い影響されてたんでね。彼達は完全に70年代とか60年代のちょっと古めなやつ。そんで、「こんなんちょっと嫌やなぁ」って思うて(笑)。そんで辞めて、(天谷と)2人でメンバーを集めてちょこちょことやってたんですね。それがGENOCIDEの初めのところですね。それで名前はねぇ、コロコロ変えてたんだよね。別に名前には拘ってなかったっていうか、ただ「趣味でメタルを演りたい!」っていう事だけで。メタルっちゅうか、ハードロック/メタル系ですね。

 (S)で、80年に「川崎(b)と西本(dr)が参加してオリジナルを作り始める」ということで。

竹内:そうやね。もう一人ギターの人がいたんですけどね。でもそこは流動的に変わってたんですよ。俺と天谷は一緒だったんですけど、もう一人のギターは流動的に変わってた。ツインになったり、4人に戻ったりとか。結局、その頃は趣味なんでね(笑)。ただ、オリジナルはSHOCKの時に1曲だけ作ったんだよね。それの反応が良かったんで、その曲を演りながら、他の曲も作ってみようかっていう感じで。

 (S)えっ、それはSHOCKと平行してたんですか。

竹内:いや、SHOCKは辞めてましたね。辞めてたっていうか、みんな(他のメンバーが)社会人なんで…自分等はもっとやりたかったんですよ、ライブとかも。ただ、やっぱ規制がありますからね。あっちは大人でこっちは子供みたいなもんでしたから(笑)。SHOCKでは2年近くやってたと思うので、だから天谷と出会ったのは、79年ではなくて、もっと前だと思うね。そこら辺、あんまり覚えてないんでね(笑)。あのバイオグラフィーも、メンバーじゃない人が書いてるんで、ちょっと違ってるところもあるんでね。だから、何年にこれをやったっていうのは、あんまり覚えてないんだわ。

 (S)わかりました(笑)。じゃあ、SHOCKで2年近くやった後に脱退して、天谷さんと2人でバンドを結成してオリジナルを作りながら、川崎さんと西本さんが加入して初期のメンバーが揃ったと…。

竹内:その頃は、ベースとドラムの奴は他のバンドでやってたんですよね。そこで目を付けてたっちゅうとアレなんですけど…。

川上:引き抜き、と。

竹内:こっちから誘ったっていう感じですね。

 (B)元々メタルが演りたくてGENOCIDEを結成したわけですよね。

竹内:そうそう、だからメタルが演りたかったんですよ。ハードロックではなくて。

 (B)それで最初からサタニックというかオカルティックなものを目指してたんですか。

竹内:いや、そこはね、BLACK SABBATHとかも聴いてたし、他の…あの頃、ギターの天谷が凄い、マイナーであろうがメジャーであろうが、出るレコードを全て買ってたと。だから、アンダーグラウンド系には結構そういうのありましたよね。初期のVENOMとか…。

川上:WITCHFINDER GENERALとか。

竹内:あそこら辺も自分等は凄い好きだった。だから自然に…最初からサタニックなのをやろうっちゅうんじゃなくて、そのサウンドが好きで結局そうなったと。あとやっぱり、基本的に映画とかも好きなんですよ。ホラー映画とか、ああいうのも。だから結局そこら(の影響)が最終的に繋がったんでしょうね。

 (S)SEで「サスペリア2のテーマ」を使ったりしてますしね。

竹内:映像的にはああいうのが凄い好きでね。僕は映画も凄い好きなんでね、そこからサウンドも自然にそういう方向になったんでしょうね。

川上:僕は天谷氏の影響が99%占めてると思いますね。

本野:ただ、その頃はサタニックっていう言葉自体も無かったよね。ただ、暗めの曲っちゅうか…。

竹内:うん、無かった。自分としては映画のサントラ的な、ああいう…あるでしょ? ああいうのをメタルっぽく出来んかなぁっちゅう、そういう感じ位にしか思ってなかったんでね。映画観て「これ面白い!」とか、そういう映画の感じを曲に出来ないかなぁって感じでしたね。

 (S)それで、82年には川上さん(g)が加入するんですよね。

竹内:川上君もね、別でやってたんですよ。

川上:OZZY OSBOURNEのコピーを演ってました。

竹内:凄かったんだよね、その時。自分等も最初から目を付けてたんですよ、「凄いギターがいる!」っちゅう事で。

 (S)それも引き抜きで(笑)。

竹内:う〜ん、完全に引き抜きやね(笑)。最初から目を付けたっつったらアレだけど、やっぱりバンドが少ないもんで。あの頃はハードロックバンドが結構いたんですけど、少ないから分かるんですよ、誰が上手いかって。

川上:この頃、天谷氏は教祖的な存在だったと思う。

竹内:そうそうそう。ギタリストとしては、福井では教祖的やったかな。

川上:僕が一番影響受けてるのも天谷氏。世界中の誰よりも(影響が)大きいっていうのが天谷氏だと思う。

 (S)じゃあ、5人になったGENOCIDEは地元ではスーパーバンドだったわけですね。

竹内:そこまではいかないけどね。

川上:他に無かったからね。

竹内:髪の毛延ばしてるバンドも自分等しかいなかったもの。そこまでバンドを…。

 (S)趣味のレベルかどうかとか、本気度が違ったわけですね。

竹内:そうだね、うん。

川上:よくナンパされたりね(笑)、駅前で。

竹内:女と間違えられて。

川上:今では長髪も多いでしょ。昔(80年代初期…今から20年前)は居なかったからね。特に田舎だから、馬鹿にされたもん。

竹内:髪の毛の伸ばし方も違うでしょ。メタルとサーファーとかとは全く違うでしょ。その伸ばし方が異常者の伸ばし方っていうかさ、あの頃は(笑)。

川上:駅前にいると浮浪者と一体化してしまう(笑)。

竹内:オカルティズムみたいなのとか、ああいうのは昔から基本的に好きでしたね。みんな多分一緒やと思う。

川上:みんな好き。

 (B) 私もそうですね。メタルってちょっとオカルトっぽいのに魅かれるし、ギミックっていうのじゃないですけど、そういうので魅かれるっていうか。

竹内:ああ、うんうん。

 (S)やっぱりヘヴィメタルってネガティブな部分を誇張したり引き伸ばしたような部分があるじゃないですか。そういった所が存在意義って言ったら極端かもしれないですけど…。

竹内:自分の場合はですね、昔から…特撮系とかあるでしょ、ああいう所からずっと蓄積してるんですよ。オドロオドロしい、仮面ライダーの初期のにしても、大魔人とか、ああいうのも、子供の頃からの映画とかの記憶が蓄積されていって、結局これが好き、イコール、音もこういう風になったっちゅう感じだと思うんですよ。天谷氏もそうだと思うのね。最初からオカルトをやろうと思ったりとか、そういうんじゃなくて。最初に(天谷氏と)知り合った時は、映画の話とかで知り合ったんですよ。こういうのが好きだっちゅう感じで。

 (S)非日常に魅かれるっていう感じですか。

竹内:そう、そっちの方が好き。子供ですね、はっきり言えば(笑)。今でもそうですけどね。

 (B)ゴジラのポスターとか、店に入ってきたら、そこにフィギュアが置いてあったりとか…。

竹内:今でもそういうのが好きですね。

 (S)そして、83年にはいよいよ3曲入りのデモテープを2日で作るわけですよね。

竹内:そうそう、2日で(笑)。地元の楽器屋さんに頼んで、その楽器屋さんが「お前等、やる気があるんやったら録ってみい!」みたいな感じで。

川上:レコーディングスタジオなんて全然無かったから、県民会館っていう所の…。

竹内:会議室やな、確か。会議室を借りて、やらしてもらったっていう感じですね。

 (S)マイクやらミキサーやらを持ち込んで。

竹内:2日で録ったと。そんで、あそこの会議室の残響が凄い良かったんだよね。それで必然的に凄い良い音になったんですよ。自分等でもあんなに良い音になるとは思わなかった。

 (S)あっ、あれはヴォーカルとかもナチュラルなエコーなんですか。

竹内:そうそう。後から加えたんじゃなくて、残響ですね。

川上:殆ど音被ってると思いますよ。一発録りに近い。

竹内:殆ど一発録りに近いもんね。ソロとかは後で入れたけど、バッキングとかは全く被ってますね。

 (S)そういった要素が相乗効果になって血気迫るというか、一体化して…。

川上:相乗効果…(苦笑)。

竹内:あれ、あそこを使ったから、あの音になったんでしょうね。「あの音を今やれ!」って言われてもちょっと出来んね。

 (S)だからかもしれないですけど、このデモは海外はもとより、マニア筋から高い評価を受けたわけですよね。

川上:僕等ですら持ってないという…(笑)。

 (S)このデモがきっかけになってアメリカのKing Classic Recordsと契約を結ぶ事になったわけですか。

竹内:そうですね。必然的にこのテープが海外に渡って。有島博志さんっていたでしょ? あの人が、どっかの筋からテープを手に入れて、「なかなか良いバンドだ」っていう事で、どっかで紹介してくれたのかな。当時その頃に、自分等のマネージャーって言ったらあれなんですけど、そこまでじゃないんですけど、そういう(渉外担当の)井出君っちゅう人がいて、その井出君が海外のあっちの雑誌とかに売り込んでくれたのかな。

川上:今はギターウルフのマネージャーしてますよ。井出君が、元福井で僕等のマネージャーだった。

 (S)King Klassic Recordsというのは余り良く知らないんですけど…。

川上:私らも知らない。

竹内:全く知らない。なんか、資料が来て、イギリスのBITCH'S SINって言ったかな、そこらと契約したのどうのって書いてあったね。

川上:電話したら子供が出てきたっていう…(笑)。

竹内:その前にもオランダかどっかの、わっけわからんレーベルからもオファーは来たんですよ。でも、その…有島さんだか誰かが、アメリカが一番安全だとか言う事になって。なんか酷かったらしいね、他の国は。僕等は全然わからんしね、英語も何書いてあるかとか。で、その井出君っちゅう人が「ここがいいんじゃないか?」っちゅう事で…完全にアマチュアですからね、全然わかんないし。

 (S)マネージャー的な役割をされていた井出さんを通じて契約を結んだと。

竹内:そうですね。

川上:実際には、福井にいた英会話の外人さんに国際電話してもらって、話をね。(契約内容としては)「5000枚売れたら、それ以上に印税を払う」と。全く返ってこないと(笑)。King Klassicは消えてしまったと。

 (S)その当時に本野さん(b)が加入されたわけですか。

竹内:「ツアーをやろう!」っちゅう事でね、井出君が精力的に地元の楽器屋と組んでブッキングしてくれたんですよ。で、そのデモテープが、ロッキンfだったかな、何かに載ったんですよ。それで、有島さんか誰かが「こっち(東京)でも演ってみないか?」っていう事で、色々とコンタクトしてくれて、楽器屋さんとかライブハウスを紹介してもらって、井出君がブッキングしてくれてるうちに、ベースが抜けたんだよね。逃げたんだよね、ベースが(笑)。

川上:ライブ当日に消えました(笑)。

 (S)それでキャンセルになっちゃったんですか。

竹内:いやいや、4人で演ったんですよ。

川上:天谷氏がベースを弾いて、僕がギターで。

竹内:で、この本野君は、石川の金沢でバンドをやってたんですよ。HELLBOUNDっちゅうバンド。これも結構金沢では凄いバンドやったね。

本野:当時で言えばデスラッシュみたいな感じでしたね。

竹内:その走りやね、デスラッシュの。

川上:良いバンドですよ、HELLBOUND。

竹内:あれは凄い良いバンドだった。

川上:そこで、彼がたまたま観に来てくれたんやな。

竹内:いや、その前に俺らが金沢でライブをしてたんだよ。

本野:対バンじゃなかったんだけど、たまたま、フラ〜っと友達を観に行ってて、「良いバンドやなぁ」と思って当時のデモテープを買って。それで、誰の紹介だったかなぁ…。

竹内:そんで、こっちの福井でまたライブを演るっちゅうことになって、観に来てくれたんだよね。

川上:その時の打上げで「入れ!」と(笑)。

本野:あれは確かツアーの1週間前だったかな。

竹内:そう、1週間で曲を覚えてもらって、ツアーに行ったんです。

川上:ツアーは7ヶ所廻ったのかな。

 (S)それが86年の東名阪ツアーという事になるんですかね。

川上:そうそう。その1週間前に彼が入ったと。

竹内:私達がツアーに出ようと思ったきっかけなんですけど、King Klassic Recordsと契約して、その記事がBURRN! に載ったあとに、1stアルバムのレコーデング用のデモを伊藤政則さんがどっかで手に入れて、自分のラジオ番組で曲を紹介してくれたんですよ。それで周りの人たちが、「こりゃあ1発!いかなあかんで!」と言う事になって、初めてのツアーに出たんです。たぶんコレが無かったらツアーまでしてないと思いますね。

 (B)本野さんは、その時にはHELLBOUNDは辞めてたんですか。

本野:あ、その時には辞めて、うん。一身上の都合で(笑)。

竹内:その頃、HELLBOUNDの内部もおかしくなってたんだよね。

本野:そうね、うん。

竹内:そういうのもあって、こっちに誘ったと思うんだ。だから、HELLBOUNDが何ともなかったら、こっちも誘ってなかったと思う。何かで、辞める辞めない、解散するのせんのでゴタゴタしとったんだよね。丁度、誘いやすかったっちゅうね。

 (S)でも、85年頃にデスラッシュって言ったら、本当に“走り”ですよね。当時のスラッシュならCASBAHとかJURASSIC JADEとか…。

竹内:(GENOCIDEとして) JURASSIC JADEとは一回一緒に演ってるんだよね。神楽坂エクスプロージョンで。あと、DOOMだったかな。諸田君(R.I.P./ex-DOOM)にデモ・テープとステッカーもらったんだわ、ステッカーは今でも部屋のステレオに貼ってあります(笑)。

本野:(HELLBOUNDの)ヴォーカルとかはJUDAS PRIESTとかFATES WARNINGとか好きだったけど…そんなのをやってましたね。

竹内:その当時は、今で言うヴィジュアル系の走りみたいなのとか、派手めなバンドが凄いウケてたんだよ。自分等みたいな、真っ黒けでやってるバンドっちゅうのはお客さんが来てくれないっていうのがあったね。まず、気持ち悪がられてたね。

川上:お客さんが寝てるという…(笑)。

竹内:全く違うんですよ、今の状況とは。

 (S)これは後から言われたことかもしれないですけど、誰が名付けたか“日本三大オカルトメタルバンド”と言われてましたよね。

川上:誰が名付けたんでしょうねぇ(笑)。

竹内:あれは有島さんですね、多分。その頃、名古屋の雲龍ホールっていう所へ呼ばれて行って演ったんですよ。CROWLEYがトリやったんかな。なんか、メタルのイヴェントだったんやね、ジャパメタ・イヴェントみたいな。そこに、デモテープのそれ(評判)で企画の人…誰やったっけ、ヘヴンの人か、ディスクヘヴンの名古屋の社長が(デモテープを聴いて)良いっちゅう事で「ちょっと来いや」って出させてもらったんですよね。その時に、三大オカルトメタルどうたらって、何かそういうレッテルを貼られたんじゃないかなぁって思う。

 (S)その後もそういったSABBRABELLSやCOLWLEYとはその後のツアーとかライブで交流もあったかと思うんですけど…。

川上:いや、CROWLEYはない。それっきり。

竹内:それからCROWLEYとは一緒に演った事はないかな。CROWLEYのドラムの人は、俺らが好きだって言って、名古屋でライブをやった時には絶対に来てくれてたけど。

川上:あっ、年末の大阪のイヴェントで、Xとかが出たヤツで…。

竹内:ああ、なんかあったな。俺も覚えないからな(苦笑)。

川上:Xやら44 MAGNUMやらが出たやつ。

本野:2曲位しか演らなかったんじゃなかった?

川上:Xがメジャーになる前で、(Xの出番が)僕等の後やったんよ。楽屋中にスプレーの臭いが充満してて(笑)。

竹内:本当に派手めのバンドがウケてたよね。派手めと、明るめのバンド。明るめって言ったらアレだけど、あの当時は女の子のファンが主体のバンドがメジャーに上がっていったんだよ。だから男が(ファンとして)付いてるバンドはダメ! もう、完全にアンダーグラウンド。

 (S)その頃で言えば、例えばSABBATとかもサタニックなスタンスで活動していたと思うんですが、彼らとの接点はなかったんですか。

竹内:もう、全く全然無かった。今でも会った事もないし…SABBATっていう名前は知ってますけどね。

 (B)じゃあ、その当時で接点のあったバンドっていうのはどの辺になるんですか。

川上:BELLADONA、SABBRABELLS、MEPHISTOPHELESとか。

竹内:SABBRABELLSとは演ってるね、一緒にツアーとかも。SABBRA-BELLSはね、こっち(福井)にも呼んだんですよ。それで一緒に演ったりとかもしてるし、他のメンバーが抜けた後に、喜一(SABBRABELLS/Vo)がメンバーを集めてやってた時にも一緒に演ってるし。SABBRABELLSは一緒に演ってるパターンが多いかな。あと、個人的にMEPHISTO-PHELESのヒカル1号さんには大変お世話になってます。東京で演る時には、いつもヒカルさんのお宅にとめて頂いてました。 ホントに、この事は今でもすごい感謝してます。やっぱりね、土地が土地なもんで、友達付き合いみたいなのは殆ど無いんですよ。(ツアー遠征から福井に)帰ってきたら孤立してしまうっていう…だから、自分等がどういう評価を受けてるかのもわからんし、こっちにいる時は自分等が一体何者なのかもようわからん。情報が一切入ってこない。自分等があっちに行ってライブを演って、そんで帰ってくるだけ。その繰り返しなんですよ。

 (S)自分達のやりたい事をただガムシャラにやって…。

竹内:そうそうそう(笑)。本当に自分等の事を「良い!」って言ってくれる人がいるのかどうかもわからない。ただ単に呼ばれたら行ってライブを演る。ただそれだけ。

川上:お客が1人であろうが2人であろうが。

 (S)お客が2人なんて事もあったんですか!

川上:岐阜であったね。実質1人。

竹内:岐阜キャスパーっていう所があったんですよ。お客さん1人で店員さんが1人。そんで、2人とも寝てたという(笑)。そこで1時間半やったんですよ、「もう、練習や!」って言うて(笑)。店を持ってたオバちゃんに凄い嫌がられてたな。

川上:「はい、もう帰って帰って!」ってね。

竹内:「次、練習あるけん」って。そこは貸しスタジオもやってたんですよ。

川上:あの頃は、そう評価はされてなかったかな。

竹内:どういう評価されてたか、自分等がどういう評価されてたかちゅうのが全然わからんかった。今でもわかんないですけどね。

 (S)正直、雑誌のフォローとかも殆ど無かったですよね。

竹内:全く無かったですよ。

川上:(雑誌に取り上げられるのは)殆どが44 MAGNUMとかEARTH-SHAKERとか、僕等とは別世界のもんやけど。

 (S)結局、日本のメジャーレコード会社の流れから外れたバンドとしての差があったんでしょうね。

川上:今ならそういうのも関係ないでしょ。昔は全く区別されてた。

竹内:海外で契約したって言われてたのだけが話題になったんですよ。それは日本のバンドで初めてだったんですよ、うん。普通なら、こっち(国内)でアレして、次にあっち(海外)にステップアップするっていう感じだったんだけど、直でバンドと向こうのアメリカのレーベルと契約して出すっていうのが話題になったのかな。

川上:逆輸入やね。

竹内:それが自分等が初めてだったんやな。その時にBURRN! がチョコチョコっと書いてくれたような気がする。BURRN! が「ビックリした!信じられん!」って書いてたような気がする(笑)。「どうしたらこんな事が出来るんだ!」って。

 (S)今迄の既成概念を崩す行動だったんでしょうね。

竹内:というか、BURRN! は驚いたかも知らんけど、自分等はただ「出さんか?」って英語の文章が送られてきて、「じゃあ出そう」っていう形になっただけで。

 (S)自分等としては、オファーが来たからその話に乗っただけで。

川上:そうそう、ただ単にね。

竹内:あの頃は日本のレーベルとかには全く相手にされてないわけで。レーベルどころか、お客さんにも相手にされてなかった(笑)。

 (B)という事は、却って海外の評価の方が高かったわけですか。

竹内:多分、そうだと思うんですけどね。

 (B)向こうの評価っていうのはこっちに入ってこなかったんですか。

竹内:あっちの雑誌に載ったんですよ。メタルのファンジンとか、向こうのに載ってたのはありましたね。向こうでどういう評価を受けてたのかも自分等はわかんないですけど、何か載ってたりしたみたいですね。

 (S)80年中後期というと、ジャパメタやスラッシュがブームになって、全国各地でファンジンやらミニコミやらがどっと出てきた時期ですが、そういった中で取材を受ける機会も無かったんですか。

竹内:だから、岐阜キャスパーで一回うけたんですよ。その2人のうち1人がその取材者だったんですよ(笑)。なんかそこで喋った覚えがあるな。

 (S)じゃあ、店員さんと取材者だけで、その2人共寝ちゃったと(笑)。

竹内:いや、寝てたかどうかは知らないですけど、1人は確実に寝てましたね(笑)。そのファンジンがどういうファンジンなのかも未だにわからない。送っても来ないし、多分あの時点でボツになったんじゃないですかね、ダメだこりゃみたいな…(笑)。(後日、その取材者が、伝説のファンジンF.E.T.U.の編集長にして現HMSS Recordsの首領である、高橋陽太氏であったことが判明!!!感服・・・:編者)

 (S)そういった意味では、今のファンからの視点だと思いますが、本当に幻のバンドだったんですね。情報に乗らないバンドというか。

竹内:多分そうだと思いますね。

川上:幻と化されてしまったっちゅう感じですかね。

 (S)で、そのビックリされたKing Klassic Recordsとの契約も、なかなかリリースされないわけですよね。

竹内:そう! これがねぇ…。

川上:解散直前やな。解散っちゅうか、活動停止直前。

竹内:レコーディングしたんですよ。で、マスターを送って、出たのが送ってから2年後ですね。で(リリースまでの間)どうなってるんだ?っちゅう事で、色々とこっちから電話してもらったりとかしてゴタゴタやってるうちに、やっぱり向こうもトラブってたんですよ。契約してたバンドと裁判沙汰になってて、あっちとしてはそれが終わらんと出せない状況やったんかな。

 (S)そういった、なかなか出ないという不安を抱えながらも2ndに向けて新曲作りを進めていて、87年に新曲4曲をレコーディングしたわけですが、それはお蔵入りしたんですよね。

川上:もうどっかに消えてしまいました(笑)。

 (S)同時期に1stデモに未発表曲を加えて再リリースしてますが、そこに収録されている“ZEP”も新曲…。

川上:“ZEP”はね、ANGEっていうフランスの70年代のプログレバンドのカヴァーです。そのカヴァーを演ろうって言って、ただ単に安易な発想で。

 (S)ライブバージョンの方にも未発表曲がありますよね。“黒い街”と、“怨転生”ですか。

竹内:ああ、“怨転生”は“自縛霊2”って言ってたんですけどね。あれねぇ、“自縛霊”も前はSEで流してたんだよね。その前は“サスペリア2のテーマ”をずっと流してたんですけど、で、もう飽きたんで何か無いかなぁっちゅう事で、インパクトを…。

川上:SEはコロコロ変わってますね。特に80年代後期の方は。

竹内:初期は“死霊のはらわた”か何かのSEを使ってたりとか、色々変わってたんですよ。映画から音を抜き取って流してた時もあります。

 (S)そして、ようやく88年には1stアルバム「BLACK SANCTUARY」がリリースされて、89年にはツアーを行なうわけですが、90年には東京でのライブを最後に活動停止してしまう。

竹内:あの頃ね、まず自分が辞めようと思ったんやね。っちゅうか、埒があかんのやね。こんだけやってても、全く先が見えてこない。あの頃にはもう29歳とかになってたから、ちょっと一服しようかという事で、うん。

 (S)やっぱり焦りとか…。

川上:焦りもあったし、みんなの音楽性の違いもあったし。

竹内:それもあるし…1stアルバムが出たのが遅すぎると。1stが出た頃には音楽性もある程度変わってきてるんですよ。それで、自分はここらでちょっと辞めたいなっちゅう事で、こう…うん。でも解散はしてない。自然にみんなの活動がバラバラになって…やっぱり自分の生活があるんでね、音楽では食っていけないし、どうしようか、と。自然消滅っていうか、自然に散っていたっていう感じやね。

川上:その頃はまったく仕事をしてなかったし(笑)。アルバイトはしてましたけど。

竹内:それとね、メジャーデビューしてたバンドがあったでしょ、SABB-RABELLSもそうだし、REACTIONとか…あの頃にことごとく終わってたんですよ。だから、イカ天かなぁ? あそこでどうしようもないバンドが青田買いされていって、イカ天ブームっちゅうのが起こるんよね(90年前後の頃に放送されていた「イカすバンド天国」というTBS系列の深夜番組で、勝ち抜き形式でアマチュアバンドが競い合ってメジャーデビューを目指していた:編者註)。で、地道にライブやツアーとかをやってるバンドよりも、イカ天に出た方がみんなメジャーデビューしていって、青田買いされていったよね。地道にやってる奴等は全部削除されてた時代やね。その頃にはメタルっていう言葉も消えてたし…ANTHEMとかそこら辺も全部終わってたでしょ。

 (B)ANTHEM、TERRA ROSAとかも終わりに近かったですね。

竹内:そうでしょ? そうなると自分等は結局やる必要もないやね。アンダーグラウンドなうえに、上にいる奴等も消えてくわけだから、どうしようもないわけよ。それでバイトしかしてないわけでしょ。食っていけてないですよ、全然。

 (S)自分達の存在意義を見失っちゃったわけですか。

竹内:まぁ、そういう事でしょうね。

川上:そういうのを見失ったっていうのもあるし、日本の音楽事情というか何と言うか…流行というかね。

本野:歌謡曲路線に走れば、それなりに行けたかもしれないけど、やっぱりそんなんはアレやな。

竹内:俺は絶対に無理!(笑)

川上:俺らは無理やな。

竹内:腹の底にあるものに、そういうのは無い!

川上:ギターを担いでる事すら格好悪いという時期があったし。

竹内:バンドをやってるのが格好悪いとか言われたりとか。それにイカ天とかがぐちゃぐちゃになってたんですよ。全部が全部悪い方向に行ってたんですよね。だから、メタルバンドなんていうのは、メジャーにあったバンドとかも、どこにも存在してなかったし…最悪の時代やね、丁度あの頃は、うん。

 (S)但し、音楽自体を辞めるつもりはなかったわけですよね。一歩引いた活動スタンスで、趣味のレベルで続けていこうと考えたわけですか。

竹内:そうそうそう(笑)。

川上:その時点で天谷氏は、東京で井出君が組んでた痛郎(ITARO)というバンドに、参加するんです。CDは4枚位出してるのかな? その痛郎の名付け親が、町田康らしいです。天谷氏は、親父さんが東京で仕事をしていた関係上、東京ヘ行って活動してたと。それは(GENOCIDEの活動休止から)3年位かな。

竹内:そこでメジャーに行ってれば良かったんだけれども、その痛郎も人間関係やら何やらがあって、メジャーデビューを逃して、井出君は、その後インディーズ・レーベルを立ち上げて、ギターウルフを発掘したと。そして今はギターウルフのマネージメントをしていると聞いてます。

 (S)他のメンバーは地元で各々バンドをやっていたと。そこで竹内さんはドラムの服部さんと一緒にやっていたわけですか。

竹内:そうやね。基本的にやってるのは、メタルでありハードロックなんやね。…っちゅうか、それしか出来ない。それしかインプットされてないし、ハッキリ言って他の(メタル以外のジャンルの)曲も演りたいとは思ってないんで、やっぱやるんだったら自分の好きな音楽を趣味でやっていきたいなと。

 (B)服部さんとの出会いはどんな感じだったんですか。

竹内:あのね、又従兄みたいな形になるんですよ。ほんで、彼も敦賀(福井)のバンドでやってたんだよね。この(武生の)近くにスタジオがあった頃に練習してたんで、帰りにここ(ジャムハウス)で飲んだり食ったりして帰って行ってたと。そのバンドでギターやってた人がいるんですけど、その人がハードロックやりたいっちゅう事で、そのバンドが終わって「じゃあ一緒にやろうか」って一緒に演ったと。それからかな、またハードロックをやり始めて。それ迄は僕はあんまり…ちょこちょことセッションって感じでは演ってたんですけど…そんな感じやね。

 (S)先程の話にもありましたが、その頃も年に1、2回はメンバーが集まってGENOCIDEとしてライブを続けていたんですよね。

川上:GENOCIDE主催、竹さん主催で、色々とバラエティ・ショー。

竹内:そこでね、自分等は(各々別に)バンドをやってたから、たまにライブをやる時に違うバンドとしてやってたんだよね。そこでまた接触するようになったんだよね。

川上:僕はオネーチャン・ヴォーカル2人のファンクバンドをやってたんですよ(笑)。

竹内:ほんでまた付き合うようになって…それまではやっぱり付き合いが無かったんですよ。自分の生活をせなあかんし、GENOCIDEとしての活動は終わってるわけやで、友達としては付き合ってたけどバンドの話はせんかったな。ほんでお互いにバンドをするようになって、ちょこちょことGENOCIDEの話が出るようになって、その時に「2ndのやり残した事をもう一度演ってみたいな」とか、そういう事で「ちょっと演ってみようか」っちゅう事で。自分等(竹内氏と服部氏)は自分のバンドでGENOCIDEの曲も2曲くらい演ってたんですよ。だけど、ギターがやっぱりダメで…で、(川上氏を)呼んでまた入ってもらったんですけどね。その時はまだ趣味の段階でしたけど。

川上:その頃は、メイクして渋谷とかにも行きましたよ。KISSのコピーバンドで、何やったかな…「接吻」っていうコピーバンド(笑)。

竹内:彼が入って、またGENOCIDEの曲も演り始めて、コピーバンドもやりぃので続けてて、そこにまた佐古さんとの接点が出来たんだよね。GENOCIDEの曲とか、こっちのテープを送ったんですよ。そうしたら「またやってるやん!」っちゅう事で、「それやったら、こっちでもやってみいや!」と言われて、行って、演ったんやな。

 (S)それが98年8月のライブですよね。そこでFLOWER TRAVELIN' BANDの“Satori”をカヴァーしていたそうですが、これは「Part 1」ですか。

竹内:「Part 1」ですね。

本野:(復活してから)初っ端のライブで1回だけ演った。

川上:そうそう、(セットの)一番最後にね。

 (B)その「SATORI」でアルバムの一番最初に叫ぶ所があるじゃないですか。アルバムの1曲目の“Doomsday”でもやっぱり最初の部分で叫んでますけど、あれは…。

竹内:そうそう、あれは完全にパクリですね。今だから言ってしまうけど。

 (B)やっぱり!!! FLOWER TRAVELIN' BANDの影響は大きいんですか。

竹内:自分はもう…日本のバンドの中で一番好きなのはFLOWER TRAVELIN' BANDやね、今でも。僕は後追いなんですけどね。リアルタイムで体験してるわけじゃないんですけど、天谷氏が「凄げぇバンドを見つけた!」っちゅう事で、丁度SHOCKの時代に聴いたんですよ。もう、「これは凄い!」っちゅう感じで…。

 (S)“Satori”は80年代当時から演ってたんですか。

川上:“Satori”は、ずう〜っと演ってましたね。

竹内:うん、ずっと演ってましたね。何か、自分達と一番近いっちゅうか。

 (S)他に何かカヴァーしてたのとかありますか。

川上:JUDAS PRIEST、IRON MAIDEN…こっちの地元ではサービスで演ってるという感じで(笑)。TROUBLEとかも演ってましたね。JUDAS PRIESTは“Hellbent For Leather”とか…。

竹内:サービス。誰でも知ってる曲を演るっちゅう事でね。

川上:ここらでは、誰でも知ってる曲を演らんと(笑)。

 (S)再びメンバーが集まって活動を再開したのは、やっぱり2ndアルバムを作りたい、やり残した事があって、それを形にしたいという事で…。

竹内:これはね、もう、ず〜っとあったんですよ。そのやり残してるっちゅう事で悶々としてたんですよ。それもね、スタジオで4曲位録ってるんだけど、マスターテープをそこの(録音を手伝ってくれた)楽器屋さんに置きっ放しで、そのマスターテープがその楽器屋さんに無いんですよ。もう捨てられてるか、上から何かを被せられちゃってるか…だから今更それを使おうというわけにもいかんし。でもやっぱり(音源として形に残していない)曲がまだあるんで、(その未発表の)曲を音源として発表したいなっていう、その気持ちが腹の中にずっと悶々と今でもあると。

 (S)やはり、それらを形にするというのが、今のGENOCIDEを動かす一番のモチベーションなわけですか。

竹内:うん、やっぱりそうやね。音源をまず出すという…ライブは別にいいんですよ。いいっちゅうのは、「来い!」と言われれば、いつでも行くけど…優先度の問題やね。

 (S)例えばライブでも演ってましたが、“歪(いびつな太陽)”とかは今のGENOCIDEとして作られた曲ですよね。

川上:ごく最近だね。

 (S)その最近作った曲と、10年前に作られた曲って違うと思いますか。

川上:いや、変わらないと思う(笑)。

竹内:基本的には変わってないよね。ただ、聴く人が聴けば違うかなとは思うけど、殆ど多分…このメンバーでやったら、あの音になっちゃうんで、やっぱり同じだと思いますよ。どんな曲を演ろうが。

川上:どんな曲を演ろうがGENOCIDEになってしまうっていう気がする。

竹内:詞的に言うと、今回出すのはオカルティズム・オンリーにはならないかもしれないですけどね。やっぱり自分も10年間の間に色々と吸収してるものがあるんで。昔はオカルティズムとかホラー映画とかでしょ、あんなのばっかり見てたんで、そっちの方に重点が置かれてたんですよ。今考えてるのは、オカルティズムもあるけれど、今の現代に起こってるような事を混ぜながら詞にしていきたい…かな。人間の内側にある狂気みたいな、ああいうのを表現したいかな。狂気とか、喜怒哀楽とか、奥底に潜む人間的なものの腹の中にあるオカルティズムっちゅうか…いま少年犯罪とかあるでしょ。ああいう狂気性ね、人間の本来持っている…あれってインタビューとかを聞くと、みんな「良い少年」とか言うでしょ? みんなそうでしょ。殺人犯した人の隣に住んでるおばちゃんとかに聞いても「あの人が何であんな事をするのか…」とか言うでしょ。突然そういう事をやる、人間の奥底に潜む突発的な狂気性っちゅうかね。原点みたいな、そういうのを詞的に表現出来んかなぁと。それとオカルティズムとを織混ぜて出来んかなぁって思ってるんですけどね。

 (S)80年当時のメンバーから考えるとドラムの服部さんだけ違うわけですけど、その辺の音楽的な変化についてはどう捉えてますか。

竹内:いや、ドラム自体の変化っちゅうよりも…ドラムは服部君を入れて3人変わってるんですよ。一番最初は西本君。その次が小島君。

川上:小島君が「BLACK SANCTUARY」で叩いてるんですよ。

竹内:技術的には彼(服部氏)が一番持ってるんですけどね。

川上:攻撃的になったかなって思う。

竹内:タイトで攻撃的。

 (S)服部さんは過去のドラマーを意識したりしますか。

服部:あんまり僕自身は意識してないです。まぁ、激しいのが好きで…荒々しいっちゅうか。

竹内:自分の思うのは、一番最初の西本君と小島君の中間位にあると思う。感性的には。小島君っちゅうのは、小技とかは効くんやけど、いまいちタイトさとかパワー感とかがちょっと薄いんやね。で、もう一人の西本君は、めちゃくちゃリズムは安定してるんだけど、技っていうかオカズとかそういうのがちょっと少なめで、リズムオンリーな所があった。それが2つ重なったのが彼。丁度良い所にあるんじゃないかなと思う。

川上:今のGENOCIDEは彼でもってると思った方が良いね(笑)。

竹内:もう、叩ける人がいないもんね(笑)。

川上:福井ではいません。

 (S)じゃあ、過去のドラムパターンに縛られたりとかいう事も全く無くて。

服部:そうです。あんまり意識したことないです。やりたいようにやると。

 (S)曲に合った形で叩くだけだと。

服部:そうですね、ええ。

川上:昔の曲とかも全く意識してないし。

 (S)ところで、ライブで“Living Legend”をラストに演るというパターンは当時からの形だったんですか。

竹内:いや、そんな事は無いです。(ライブの)頭に演った時もあるし。

川上:日によっては“Landscape Of Life”が最後とか。

竹内:だから色んなパターンがありますね。そのライブの時間もあるし…。今なら、お客さんが自分達に対して“こうして欲しいんだろうな”っちゅうのを考えて、そのパターンをちょっとやってみようかなと。だから、頭で演るよりも、一番最後に“Living Legend”を演るとお客さんは盛り上がるんじゃないかなぁとかね。

川上:それから何故演るかというと、最近のお客さんって「BLACK SANCTUARY」しか聴いてないでしょ。だからだね。

竹内:新曲とかを1曲か2曲織混ぜて、あとは「BLACK SANCTUARY」の曲で(セットを構成する)。結局、自分達も“振りだし”なんですよね、言ってしまうと。

川上:本当は、昔の曲は死ぬほど演ってるからやりたくないんです(笑)。

竹内:自分達もまたスタートラインに立ってるんで、スタート地点から考えると(昔の曲中心にならざるを得ない)。お客さんも違うわけでしょ。自分等の時(80年代当時)のお客さんはハッキリ言ってオヤジになってるだろうし、ハッキリ言ってライブに観に来るなんて事は絶対に有り得ない。そうでしょ?

 (S)そうですね。昨年(2000年10月28日・目黒Live Station)のライブでも、思ってたよりもそういう層のお客さんが居なかったですね。

竹内:殆ど居ないでしょ? だから、今のお客さんにどうアピール出来るのかなぁっていうものと、最終的にああいう曲を選んで演った方が、今のお客さんには馴染みやすいかなと、自分等はそう思って演ってるんですけどね。もしかしたら(客の意識とは)違うかもしれないですけど(笑)。

 (S)何故こんな質問したのかと言いますと、“Living Legend”のラストに同じリフで引っ張るところで、お約束といったら失礼かも知れませんが、フォーメーションというか独特のムーブを見せてくれたじゃないですか。ライブの中でもとりわけあのシーンが印象的だったんですよ。凄く、GENOCIDEらしさを感じたというか…。

竹内:お客さんが思ってるような事をこっちも…っていうか、要は今見てるお客さんと自分等が近くなったっていう事だろうね。

川上:実際、“Living Legend”を最後に演ったのって、ここ最近だよね。2回位かな。だから(80年代当時からの)定番ではなかったね。

竹内:“Landscape Of Life”で終わるパターン…バラードで意表をついて終わると、そういう展開の時もあったし、“Doomsday”で終わるというパターンもあった。色々あったね。

 (S)今のバンドって、もっとラフというか、GENOCIDEが持っているような良い意味でのギミック性に希薄な部分があると思うんですよ。音だけで勝負とか、そういうのも悪くないと思うんですが、それだけではないパフォーマンスの部分に80年代のヘヴィメタルらしさや匂いを感じたのも事実なんです。

川上:それは狙ってたんですよ(笑)。

竹内:“Living Legend”を最後に演るっちゅうのは、あれは狙いですね。自分達の表現を一番良い形でアピール出来る曲かなと。

川上:天谷氏が言ってたんですが、アメリカでは延々と同じ事を繰り返す事がウケると。インプロヴィゼーション的に、そういうのがウケると言ってましたね。

 (S)トリップ感なんでしょうかね。

竹内:そうでしょうね。あっちは葉っぱとかああいうのでね。なんちゅうか、細かく変わっていく感じのよりも、同じ単純なやつの繰り返しの方が良いのかも知れませんね。

 (S)それでは、今後の予定について教えていただけますか。

竹内:今後はねぇ、まず音源をどうにかしたいというのと、それに伴ってライブをね、最終的にはその2つしかないでしょ。ライブもこの前、DEFILEDさんの企画に出させてもらったデス、スラッシュ系でも自分等はOKだし、普通のメタルイヴェントとか、ジャパメタに入ってもいいし、自分等は結局何でもいいんですよ。で、今回(KABBALAのサンプラーCDに)提供させていただいてる“Red Castle〜毒人形”っていう曲も、元々英語詞だったのを日本語に変えて演ったんですよ。今…日本語の方が難しいんですよ。英語は簡単なんです。単語とかスペルを乗せていくのは簡単なんですけど、日本語をメタルに乗せるのは物凄く難しい。それにちょっと挑戦してみたかったっていうのもあるし…自分達はやっぱり、どう考えてもガイジンにはなれないよね。日本人なんやね。という事はやっぱり自分の言語、元々ある言語で表現して、それで一度ガイジンにアピールしてみたいなという気持ちがあるんやね。言葉まで売ってしまうと、なんか負けたような気がするんですよ、全てに。

 (S)GENOCIDEにとって“日本らしさ”というのはとても大切なファクターですか。

竹内:物凄く大事だと思うね。自分等のやってる音も凄い日本的だと思う。別に太鼓とか笛とかああいう感じではなくて、奥底に潜むオリエンタルな表現が日本的かなぁっちゅうね。

 (S)意識しなくても出てしまうものとして…。BR>
竹内:そうね、うん。別に英語でも良いんですけど、向こうの人が「日本語じゃわかんないから英語にしろ」って言われればするかもしれないですけど、今はちょっと日本語で一回、奴等(欧米のメタルファン)に勝負してみたい。何て言ったらいいのかなぁ…よくあるでしょ、民俗音楽。民俗音楽の原住民の人達が英語で歌ってたらやっぱオカシイでしょ? やっぱりその国や地域の良さみたいなものを、やっぱこう…世界でも当たり前に吸収してる時代だと思うんだよね。世界に出るから絶対に英語でなくちゃいけないとか、そういう時代は終わってるんじゃないかな。日本人だから日本語でいいんじゃないかな。それでそのまま勝負してもいいんじゃないかと思う。

 (S)例えば、ヘヴィメタルは英語圏で生まれた音楽なのだから英語でやるのが自然だという考え方もあると思うんですが、日本人がやるからには“日本”というフィルターを通されて当たり前、それが自然であると。

竹内:King Klassicから出てるやつ(「BLACK SANCTUARY」アルバム)も日本語でしょ? でもあいつ等(King Klassic Records)からは、日本語だからどうのという言葉は一切聞かれなかったんですよね。俺達が日本のバンドで日本語で歌ってるのは、あの人達は当たり前として捉えてるんですよ。だから、何の制約も無しにそのままやってくれたんですよ。まぁ、訳詞した歌詞カードみたいなヤツは送りましたけどね。要は、訳詞を付ければそれで良いと思うんです。どういう事を歌ってるのかなぁっちゅうのは、日本語で歌ってても、英語の訳詞を付けてやれば奴等は「こういう事を歌ってるんだ」という事がわかる。

本野:ヴォーカルを一つの楽器とみなしたら、英語の発音と日本語の発音は全然違うしね。そこで一つの楽器が違うと考えれば、それはそれで面白いしね。

竹内:ファンクとかもっとインターナショナル的でメジャーな聴きやすい音楽でそういう事をやったらおかしいのかもしれないけど、自分達のこういう音だったら日本語でも英語でもどっちでも良いと思うんですよ。やっぱり聴く人が限られてきますからね。その中でその人達にどういう自分達を表現出来るかっちゅう…ホント、日本語って難しいんですよ!!! 日本語はなかなか(メロディに)乗せられないっちゅうか、一歩間違えると…。

川上:外タレを日本人が聴くと英語でしょ。英語がわからなくてヘヴィメタルを聴いてる人は沢山いるわけですから…結局は曲と雰囲気とが重要という事で。

 (S)欧米から見た外タレみたいな。

竹内:そうそうそう。

本野:へたに歌詞がわかってしまうと全然面白くない場合もあるけど…。

竹内:ちゃうねん、下手な発音の通じない英語で歌うんだったら、母国語で歌った方がインパクトがあるんや。

川上:まぁ、演るのは日本人の前なんだけどね。僕は少なくても日本語は重要だと思う。

竹内:そうは言っても、自分としてはこのバンドを海外にアピールしたいっちゅう気持ちもあるんですよ。ただ、それにはやっぱり訳詞は要ると。

川上:訳詞は要るけど、日本語でもいいと。

 (S)またライブの話に戻ってしまうんですが、ヴォーカルにしても「アルバムと同じだ!」って感じで全然衰えを感じさせませんでしたが…。

川上:いやいや、体力的にはもう…(笑)。

竹内:ある程度ゴマかしてるんですけどね。「出来ないヤツはやめとこう」と。どうしても「これを今演るのは無理かなぁ」っていうのはあるんですよ。だから「BLACK SANCTUARY」の中の曲が全部出来るわけじゃなくて、今自分等が出来て、お客さんにもインパクトを与えられる…要は「うわぁ、衰えたなぁ」と思わせない曲をピックアップして演るのも大事かなぁと。

 (S)したたかな戦略として(笑)。

竹内:いや、戦略じゃないですけど、出来ないモノは出来ない。見苦しいでしょ(笑)。お客さんもね、無理してるのを観ると辛くなるんですよ。だったら、出来る曲を精一杯演ると。で、新曲も(ライブでは既に)演ってますけど、今度のアルバムを作ったら、それの曲が中心になると思うんでね。でも、お約束として、お客さんの聴きたい曲はライブでも演りたい。“Landscape Of Life”も、本当に聴きたいという事であればやらないかんし、他の曲でもそういうのがあれば。ただ、昔のお客さんはいないわけで、今のお客さんに自分等を聴かせたいわけで、今のお客さんは多分「BLACK SANCTUARY」を知らない人が殆どでしょ? ね? 多分、もう手に入らないし。だから今のお客さんにどうアピール出来るかっちゅう事を考えると、ああいう(昨年10月に東京で演った時のような)選曲が良いかなぁとね。でね、速いのはちょっと無理なんでね、今の人達の音楽に自分等を合わせるっちゅう事は絶対に出来ないし、やろうとも思わないけど、あのパターンでこれからもちょっとやっていきたい。

 (S)じゃあ、これから2ndアルバムをレコーディングして、リリース先を探して…。

竹内:またそのリリース先も問題なんですよ。だから「どうしようなかぁ」って思ってて…。あと、これからの戦略というとアレなんですけど、どういった形で自分等が出て行けばいいのかなぁっちゅう、それが今ちょっと悩みかな。

川上:それには音源を出す事しかないと思う。

 (S)また音源が出れば、その反応が新しい波を起こしてくれると思いますよ。そろそろ最後になりますが、本誌はスラッシュ/ヘヴィメタル・ファンジンになりますが、読者に向けてメッセージをお願いします。

竹内:そやね、メッセージって言うとアレなんですけど、これから自分等は今のヘヴィメタル・ファンの人達が満足出来るようなライブとアルバムを作って頑張っていくんで、宜しくお願いしますっちゅう事ですね。

川上:マイペースながら自分達を殺さずに…殺しようが無いですけど(笑)。

竹内:音はね、絶対に変わることが無いんですよ。だから、下手な色気を出したりとか、そういう方向に行くような事は出来ないんで、絶対にこの音でやるしかないんで、これで気に入るか気に入らないかはお客さん次第という事ですな(笑)。

川上:あれやね、満足は自分等がすればいいような感じになってしまってるんで…。

 (S)下手に色気を出すような事があったらウチが黙ってないですから(笑)。

川上:(笑)音源は21世紀中、今年中には…。

竹内:なるべく完成させて頑張りたいなと思います。

川上:また御贔屓に宜しくお願いします。

竹内:明日からレコーディングなんですよ。KABBALAさんの(Sampler Disk #3に提供する)曲を。

川上:一応15年前の曲ですからね、古い。

竹内:それもアルバムに入れるかもしれないし、まだわからないですけど、今回はKABBALAさんの読者とか今の人達に聴いてもらうような曲…だから新しい曲として聴いて欲しいっちゅう事ですね。自分等としては古いんですけど、今聴く人には新しい曲だと思うんでね。これも日本語です、完全に。昔とは、聴く人が聴けば同じに聞こえるだろうし…。

川上:「BLACK SANCTUARY」しか聴いてない人にはちょっと違うかなと思うかもしれない。

竹内:(“毒人形”について言うと)じつはこの曲は昔からライブでも必ずと言っていいほど演っているヤツで、このコレで幕を開けたり、ラストで閉める曲として使ってたんですよ。昔のライブに来ていたお客さんには馴染み深い曲なんです。定番と言うか、お約束の曲ですね。当時は英語で歌っていて、タイトルも“Castle”と付けていましたけど、今回は歌詞を日本語にして、曲もアレンジしています。86年の東名阪ツアーもこの曲で幕を開けてるんですよ。ちなみに、再始動の98年8月8日の西九条Brand Newでも頭で演ってます。「BLACK SANCTUARY」は、殆どが天谷と私が作った曲で、“Landscape Of Life”と“毒人形”が川上と作った曲なんで、タイプが違うように聞こえるかも知れませんね(川上が創ったもう1つのGENOCIDEの世界です:竹内註)。ライブになると、もっとノリと狂気性が増すんですけどね(笑)。

 (B)GENOCIDEは自分達よりも一つ前の世代になるじゃないですか。シーンでは、既に自分達の次の世代も出てきて活躍してるわけですが、そういった中に戻ってくる事に葛藤はなかったですか。

川上:全然無いですね。

竹内:全然無い!!! …っていうかね、ハッキリ言って、こっち(福井)だと情報が全く入って来ないんですよ。東京のお客さんとか、大阪のお客さんとか、そういう人達が今どういう音楽を好んで聴いてるかもわからないし、BURRN! を見たって、メジャーのデカい人達がインタビューに答えたりしてるだけで、それとウチらとは全く関係がないしね。今思うのは、自分達は日本でやってるわけだから、日本のお客さんにアピールしなくちゃいけないわけでしょ? 最初からわけのわからん外人に媚び売っても仕方ないしね、まず日本人の人達に自分達の音を知ってもらうという事で。さっきおっしゃってたように、プレッシャーとかは全く無いんですよ。そこまで考えてない。

川上:本当に自分達のやりたい事を全うすると。

竹内:ただ自分達のやりたいようにやってるだけなんですけどね。 ■■■






これだけでもかなりのロング・インタビューであるが、録音していない部分でもなかなか興味深い話が連発した。その中でもとりわけ印象的だったのは、5人で行なわれた東京のライブについて、福井県や石川県在住の4人のメンバーと東京在中の天谷氏とは一緒に練習する事も滅多に無いそうだが、天谷氏を交えてのリハが、何とライブの前に1時間くらい合わせただけといった話であろうか。それでいて、あれだけの演奏とパフォーマンスになるのだから、これはもう長年の阿吽の呼吸が成せる技としか言いようが無い。しかもあのライブパフォーマンスを見せながらも、「私的には不満が残るライブでした」と断言してしまう辺りは、ちょっと驚きですらあった。そんなナチュラルな迫力と存在感とパフォーマンスこそ、21世紀になっても受け継いでいきたいヘヴィメタル界の世界文化遺産ではないかと思う。ひとまずは、サウンドやスタイルに興味があろうと無かろうと、一度はGENOCIDEというバンドを“通過”して欲しい。その強い願いこそが、今回の長い長い巻頭インタビューの全てである。



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