SOLITUDE interview



※ このインタビューは、KABBALA#22(1999年12月発行)に掲載したものです。[原文ママ]




  日時:平成11年10月17日(日) 午後7時頃

  場所:都内・杉内氏の自宅にて

  話し手:杉内 哲(Vo)、井田 真悟(G)、西田 亨(B)、小谷野 靖男(Ds)

  聞き手:池松 康弘(KABBALA'zine)




 まず、“March Of The Final Decade”創成期のとき(SACRIFICE時代)のお話を伺いたいのですが?

杉内:もともとは・・・CASBAHとRAGING(FURY)と俺達ってのは、それなりに活動も共にしてたし、結構共通点もいろいろあったんで、バンドとしても方向性としても、3つで動いたほうがやりやすいんじゃないか、という感じがして。で、「何かやろうよ」って話を持ちかけたときに、タカ(羽鳥氏/CASBAH)が「“March Of The Final Decade”ってイベントにしようか?」って、タイトル・ネームを持ってきたんだよね。

 当時のSACRIFICEの活動状況というのは?ちょうど「TOTAL STEEL」(2ndアルバム)が出る前でしたよね?

杉内:そうだね。アレは90年1月にリリースだった・・・から、曲はすでに固まってて。基本的に「TOTAL STEEL」に入れた曲ってのは、当時ライブでもガンガンにやってた曲だったから、もうその頃から演奏してたね。

 で、第1回目の“March Of The Final Decade”が新宿ロフトで行われたわけですが、その時のライブの印象はどうでしたか?

杉内:凄い楽しかった思い出があるよ。ロフトの(会場の)ケツまでギューギューにお客さんが入ってて、酸欠状態になってたのはよく覚えてる。あの頃のお客さんてのは、今よりももっとハングリー・・・だったのかはわからないけど、人も多かったし、俺達も楽しかったよ。「やってよかった」って感じがしたけど。それに病みつきになった、って部分もあるね。

 回を重ねるごとに手応えのようなモノは感じましたか?毎月とかじゃなく年に1回なんで、そういうのを感じるのは結構難しいかもしれませんが。

杉内:3バンドとも、なるべく年に1回、このイベントに焦点を絞るって感じで、それ以外はブッキングが重ならないようにしてたからね、お互い。当時、RAGING FURYもコンスタントにライブやってたし、シングルとか出したり、CASBAHもデモテープ出して、ディールの話があったり、ある意味では油がノってた時期だったと思う。で、回を増すごとに、“March Of The Final Decade”・・・ていうか、この3バンドがやる夏の企画、みたいな認識は高まっていったような気がする。

 91年に初めて東・名・阪のツアー形式になりましたが、地方ごとに反応の違いとかはありましたか?

杉内:SACRIFICEは、東京よりもむしろ名古屋で人気があったようなバンドだったから。別に“March Of The Final Decade”に限らず、単独のツアーでも、名古屋では凄い盛り上がりで。地元に帰るような感じだったね。初めてウチらを受け入れてくれたのも、名古屋だったと思うし。もちろん、東京も地元、ホームタウンだということで盛り上がってたけどね。

 92年の時は、CASBAHから三谷氏が脱退ということで、“Russian Roulette”を西田さんがセッションで弾いたわけですが・・・どうでしたか?

西田:難しい(笑)。曲が速いうんぬんよりも、(いつもと)ドラムも違えばギターも違うし、自分の持ってるリズム感と合うか合わないかという点で、難しかった。

杉内:ハルオちゃん(中川氏/RAGING FURY)がやった“Chain Gang”は、俺も印象に残ってるな。

西田:イヤ、俺もホントは“Chain Gang”が好きで、やりたかったの(笑)。でも、ハルオちゃんがやるってのを聞いて、「ええっ、じゃあ何やろう!?」 ってタカさん(羽鳥氏/CASBAH)に相談したら、「“Russian Roulette”はどう?」って話が出て。で、その曲と、あと名古屋では“Swan Song”をやった。皆で名古屋に向かうときに「ホラ、一緒に車に乗って」って、CASBAHの車に俺が乗って(笑)。

杉内:そうだっけ(笑)。

 そして、その年の暮れにSACRIFICEは解散・・・となってしまうわけですが、よろしければその辺の詳しい事情をお聞かせ頂けますか?

杉内:うーん・・・もともと好きなことやるためのバンドだったんですよ、SACRIFICEっていうのは。で、まあ、当時あるマネージメントに入ってたけど、そこに入ってたことが悪いことではなくて、今思えばそこで自分たちが流されていったような気がする。いい意味で、そのマネージメントを使えなかった、と。バンドやって、ツアーして、レコーディングして、それでも構わないって考えでやってたんだけど、どこかで歪みが生じる時期でもあったんですよ。そこで、メンバー間でバンドを再統一しようと思ってたんだけど、当時そう思ってたのはメンバー内で自分だけだった、と(苦笑)。そこで、建て前上は俺がバンドを抜ける、という形をとった。で、残されたメンバーとの決まり事として、彼らが新しいバンドをやる際には、SACRIFICEの名前は使わないでくれ、と。その代わり、俺が抜けたという形にしてくれて構わないから、ということで。で、残されたSACRIFICEのメンバーで改名したような形で(注:ACE IN THE HOLE)、バンドが立ち上がったんだよな。当時、自分でもいろいろな事がうまくいかなくて、煮詰まってたというところもあるんだけど。

 96年のSOLITUDE結成のときには、ACE IN THE HOLEは活動していたのですか?

西田:93年ぐらいから活動してて、ライブも2回ほどやったんだけど、最初にドラムのケンジ(鈴木氏/現UP HOLD)が抜けて、活動がままならない状態になってしまって。そのうち、ボーカルもシビレを切らして抜けちゃって。村上(G/ex.SACRIFICE〜ACE IN THE HOLE)と2人で「どうしよっか・・・?」って宙ぶらりんな状態になってる時に、ある人から電話がかかってきて・・・杉さん(杉内氏)なんだけど(笑)。「飲みに来い」とか何とか(笑)。で、杉さんも、生活の面でも落ち着いてきたし、「また一緒にバンドやらない?」って。

 SACRIFICE脱退からSOLITUDE結成まで約4年・・・焦りとか不安はなかったですか?

杉内:まったくなかったね。(SACRIFICEを)やめてから1年間ぐらいは、完璧にバンドをやりたくなかった時期で。ただ、心のどこかでは「バンドやんなきゃ」って思ってたけど。ただ俺の場合は、他の人のライブとかにはあんまり行かないし、行けば挨拶がわりに「どうしたの?」「何やってるの?」って言われるのがイヤで。だけど、自分としては「見つめ直す」という意味では、すごく重要な時期だったと思いますよ。自分の欠点とかも見えてきたし。流されてたからね、SACRIFICEのときは。海外志向とか、洋楽を聴いてるファンがどうのこうのとか言いながら、自分達がいちばん耳にしてる音楽っていうのは、外タレのもあったけど、周りで一緒に活動をしてるバンドに限られてきちゃって。その中での存在でしかなくなってることに、自分としては凄い不満みたいなものもあった。でもそれって、考えようによっては凄い危険なことですから。自分が田舎から出てきて「プロになりたい」ってバンドやってたときは、凄く素朴に音楽も聴けたし、そういった「楽しみ」が少なくなってきてた気がするのね。だから、自分を見つめ直すいい期間だったと思う。で、バイオには「96年結成」ってあるけど、それより前からニシ(西田氏)とはやり始めてたから。92年に脱退して、1年間ブランクあって、で94年か95年にはもうニシを誘ってた。96年に小谷野とかが入るまで、ずっと週2回スタジオ入って曲作って、メンバーが変わるとそれまでの曲は捨てて・・・というのをずーっとやってた。こだわってたから、その辺は。

 小谷野さんと、中森さん(前任ギタリスト)が加入されたきっかけっていうのは?

杉内:SACRIFICEのときもそうだったけど、ある程度名前の知れた人物っていうのは、できれば入れたくなかったんですよ。で、小谷野は『Player』誌に載せてたんですよ。俺はよく『Player』見て、電話して・・・っていうのをやってたから。そういうバンドの基本型? 元SACRIFICEだとかそういうんじゃなくて。で、電話して聞いてみたら、ギターとドラムのセットで、最初コイツらは「トリオがやりたい」って言ってたの。

小谷野:前のバンドがトリオだったんで。ベース・ボーカルが抜けて、それで探してた。

杉内:で、1回断ってんだよね。 でも、毎月『Player』見てると、ずーっと載ってんだよね(笑)。その間やっぱ苦労とかしてたと思うんだよ、彼らも。で、もう一度コンタクトを取って、スタジオで合わせてみた、と。

 でも、小谷野さんと中森さんが加入されてからも、初ライブまで約3年・・・ずーっとリハーサルですか?

杉内:そう、ずっとリハーサル。ライブやってみて思ったけど、ライブやる勇気がなかったんだろうね、きっと。慎重だったのもあるけど、踏ん切りがつかなかったんだと思う。ずっと週2で3年間リハーサル・・・よくコイツら(他メンバー)も我慢してたと思うよ(笑)。

 SOLITUDEとしての初ライブ(注:99年3月20日、目黒ライブステーション)は、どんな感触でしたか?

杉内:しんどいね(笑)。普通、活動のブランクが長ければ長いほど、曲間を空けなきゃなんないと思うけど、そういうことしなかったでしょ? ブランク長くても、曲間を詰めて、繋げていくようなステージングをしてたから。ちょっとバテてたね。テンションは凄い高いんだけど、マインド・コントロールっていうか、その辺がうまくいかなくって。バランス的には悪いっていうか・・・そういった意味では、非常にシロウトくさかったかな、と。その辺が凄い反省点だな。

西田:気持ちばっかり先行してたのかなぁ。「もっともっと自分は動けるはずだ」「何年か前はやってたんだから、全然平気だ」って思ってたんだけど・・・。

 なるほど。それではこの辺で、今後のSOLITUDEの活動予定を聞かせてほしいのですが?

杉内:うーん・・・音源はもちろん出したいし、ライブもそれなりにやっていきたい。ただし、今の時代っていうのは、これだけメディアとかも発達してて、情報も多い。逆に言えば、いろんなやり方ができる時代だと思うんですよ。昔みたいに、ヘヴィメタル・バンドがクラブをサーキットして、デモテープ作って、ビラ配って・・・って、それが間違ってるとは思わないけど、俺達はどっちかっていうと、別のやり方を探していきたいと思う。なぜかっていうと、それはバンドのスタンスにもよると思うんだけど、昔は凄いツアーして、苦しい思いをして、精神的にも金銭的にも。で、ライブもやりたい、音源も作りたい、と。で、あの頃っていうのは、「ビジネス」っていうものをよく分かってなかったというか。誰かが「レコード出してやるよ」といえば、それなりに考えたフリをしてたけど、よく分かってなかったと思うんですよ、「ビジネス」の中に足を踏み入れるってことが。やっぱり、それは自分がヤワだったというか。もっと活動しやすい状況・・・例えば、別に誰かが「出してやるよ」じゃなくて、自分たちで好きな時間だけ使ってレコーディングして、お金出してやれば、誰にも文句は言われないだろうし。ただし、そうして作ったモノに関しては、皆が喜んでくれるものをやっぱ作りたいと思うし。ツアーやって、皆見に来てくれれば嬉しいし。その辺を、うまく長くやれる方法を模索してるんだよね。

 で、先頃ギターが中森さんから井田さんにチェンジしたんですよね? その辺のいきさつは?

杉内:前のライブが終わって、浩樹(中森氏)とはいろんな話をして。基本的にウチらは、メンバーチェンジっていうのはしたくないバンドだから。ただしやっぱり、色々な反省点を前向きに考えていくうえでの、方法論がちょっと違ってきちゃったんで。ただ、俺達はまだ1回しかライブをやってないんで、知らない人達もいっぱいいると思うから、誰が入ってきても、まったく新しいバンドとして見てもらえると思う。だから井田が入ったことで、イメージがまったく変わるってことはないと思う。逆にそれは、これから作っていけばいいわけだし。

 井田さんのほうは、実際加入されてみて、いかがですか?

井田:かなり・・・ハマッてるんじゃないか、と思います、自分では(笑)。昔から対バンやったりとかして、人間的にも知ってる人たちだし、言いたいことも言えるし、「多分こういう音楽やってるんだろうな」っていうのも分かってたから。かなり溶け込んでると思いますよ。

 さて、SOLITDEとして2回目のライブになる、今回の“March Of The Final Decade”ですが、意気込みのほどを、ひとつ。

杉内:意気込みは・・・口では表せないほどだね。言葉にするともったいない気がする。ただ、早くステージやりたいし、早く皆の顔を見たいし。CASBAHとかも、ウチらの音を聴いたことがないと思うから・・・。

 どう感じてもらえるのか、楽しみですね。

杉内:うん。でもウチらは、ただもう自分たちのやりたいことをやってるんで。自分達らしいライブをやれば、間違いないかな、と。あとはその辺をいかにコントロールして、東京・大阪のライブ当日に合わせられるか、っていう問題だね。

 漠然とした質問かもしれませんが、この“March Of The Final Decade”で伝えたかったこと、あるいは今回伝えたいこととは、何でしょう?

杉内:これ(“March Of The Final Decade”)に限ったことじゃないんだけど・・・ロックバンドやっている以上、どのバンドも主体性を持って、自分たちを見てもらいたいから、納得してもらうように主張してやってますんで、見に来る人たちも主張して、お互いがぶつかり合うようなライブをやりたいと思ってる。そういった点では、なかなか今はそんな機会がないかもしれない・・・よく分かんないけど。バイオにもあるように、俺達はちょっと遠くから離れて(シーンを)見てるようなところがあるから。だから主張と主張がぶつかり合うというか、今回も3バンドにプラス1バンドずつ出るんだけど、そこでどういった主張があるのか、見に来る客側もどういった主張を持って俺達にぶつかってくるか・・・。そういったライブをどんどんやっていきたい。俺たちは・・・ヘヴィメタルにこだわってるつもりもそんなにないんだけど、よく「シーンはダメだ」って言われてるじゃない? でも、離れたところから見ていると、皆ヒトのせいにばっかりしちゃって、自分達は何もしてないじゃないか、って気がするのね。自分達で何も切り出さなかったら、何も始まらないわけだし。今またそれをやってもいいんじゃないかと思う。客が1人になろうが2人になろうが、そういった自分達の主張がぶつかり合うライブを何回できるか、っていうのがあとに繋がっていくんじゃないのかな。そういったことを望みますね、特にこの企画には。

 今回の“March Of The Final Decade”で、SOLITUDEに初めて接するオーディエンスもいると思うんですけど・・・。

杉内:ええ。かなりいるでしょうね、それは。

 そういった人達も含め、最後にメッセージをお願いします。

西田:何て言っていいのか分からないけど・・・とにかく、自分のすべてをぶつけます。

井田:俺は、ギターを弾き始めたときから−他のバンドでやってたときも−「泣きのギター」の日本一を目指してやってましたんで。そろそろトシもトシなんで、日本一にならないと(笑)。皆が思わず目を閉じてしまうような・・・そんな演奏をしたいですね。

小谷野:何だかんだ言って、自分が見たいと思うヘヴィメタル・バンドは昔から少なかった。やっぱりどこかスラッシュに影響を受けてたりとか、そういうバンドも多かったけれど・・・。でもこのバンドは、メタルからの影響だけじゃないけれど、少なくとも俺はヘヴィメタルのつもりでドラム叩いてるんで、そういったことを期待してもらえれば。

杉内:俺も小谷野の意見と似てるんだけど・・・。俺達はいろんなバンドに影響されてますから、さっきも言ったように固執してるつもりはないんだけど、多分見ている側からすると、凄いヘヴィメタルなバンドだと思う。だからその辺のギャップをどうするか・・・ただ、それは埋める必要もないと思ってるんで、俺達はそれを思いっきりぶつけたいと思うし、そこで自分達のカラーをキャッチして欲しいし。俺達も、アンダーグラウンドなシーンやバンドっていうのに惹かれる部分もあるから、「こんなバンドもいるんだ」と思って見てくれる人が何人いるか・・・あとはライブやりながら、そういったキャッチボールをやっていきたいね。■■■



SOLITUDE official website







KABBALA 特別講座
教科書では教えてくれない伝説のバンド 〜出張版〜
SACRIFICE

(文責:多田 S.S.M. 進)

※ 文中敬称略とさせていただきます事を御了承下さい。[原文ママ]





 日本が誇るHMの重戦車軍団SACRIFICEの歴史は、85年9月にex. BLOODLUSTの杉内 哲(Vo)を中心に結成されたことから始まった。結成時のメンバーは、野中 一夫(G)、矢崎 尚(Ba)、川上 雅教(Ds)の4人で、リハーサルや曲作りなどを繰り返し、86年1月に屋根裏で初のライブを行なう。SAXONやVENOM、MOTOR HEAD、ANGEL WITCH、METALLICA等といったNWOBHM系からスラッシュまでのバンド群から強い影響を受け、それらのバンドが持ち合わせていたHMならではの破壊的な面をしっかりと受け継ぎながらも、SACRIFICEの最大の特徴ともいえる暗黒面や重さを強く打ち出したスタイルは結成当時から追及していたのである。何回かライブを重ねた後、86年4月には初音源となる1stデモ「Crest Of Black」(収録曲は“Friday Nightmare”と“Warfare”)をリリース。この2曲入り¥400のデモは1000本販売し、国内は勿論のこと、KERRANG! 等といったヨーロッパ方面の海外のファンジンやアンダーグラウンドシーンでも好評価を得た。その一方で「確かに重たいが、VENOMのコピーだ」という声も一部にはあったようだ。当時、CASBAHやJURASSIC JADE等といったスラッシュ系のバンドとのライブを中心に行なっていたが、この当時はまだスラッシュが一般のHMファンに対して浸透する以前の話で、スラッシュに対してライブハウス側もまだまだ閉鎖的だった事もあり、活動場所は神楽坂EXPLOSIONや目黒鹿鳴館が中心だった。

 こうしてデモをリリースし、ライブ活動を続けていったSACRIFICEは、87年3月頃からアルバムのレコーディングへと入り、87年6月14日にExplosion Recordsから1stアルバム「Crest Of Black」をリリースした。初期の名曲というか代表曲である“Friday Nightmare”や“Tank”、“Witch Hunt”等を収録した全9曲入りのLPで、SACRIFICEの特徴である重さと暗さが前面に出ており、曲のイメージに合わせてSEを付けるなど、音作りの細部にも工夫を見せたりしているが、残念ながらライブで発散される独特の雰囲気や破壊力までは封じ込められず、重苦しい雰囲気が強く支配しているアルバムである。余談だが、アルバムジャケの角の生えた兜の戦士は、SACRIFICEの力と強さのシンボルとも言えるキャラクターで、名前は「SACRI」というらしい。IRON MAIDENのエディみたいなものといえば分かってもらえるだろうか。

 1stアルバムリリース後は、順調にライブ活動を行なっており、88年の夏頃には2ndアルバムをリリースする構想があったのだが、ポーランドのTHRASH CAMPというフェスティバルへの参加の話が舞い込んできた。それを機にヨーロッパへの進出も考えていたのだが、ここで、ポーランド行きを強く望んでいた杉内&川上と金銭的な問題等を理由に異を唱えた野中&矢崎の間で意見が衝突してしまう。幾度と無く話し合いが行なわれたが、結果的にはこの件をきっかけに考え方の違いが表面化して、野中と矢崎は脱退、ポーランド行きの話も無くなってしまった。その後は新たなメンバーを探す日々が続いたが、結局は川上までも脱退し、暫く身動きがとれない状況が続いた。

 89年初頭に杉内を中心にex-SABBATのSammこと館 真二(Ds)、村上 裕之(G)、西田 亨(Bs)を新メンバーに迎えたSACRIFICEは、2月の鹿鳴館でのライブで見事に復活を果たし、活動を再開する。この年、CASBAH、RAGING FURY、SACRIFICEという強力なメンツによるライブ「March Of The Final Decade」の記念すべき第一回目が行なわれたのである。翌年、90年5月4日には鹿鳴館にてSACRIFICEの企画ライブ「True Metal Maniacs」を行なうなど、新メンバーで順調にライブ活動などを続けていた。9月末からは2ndアルバムのレコーディングを開始し、UNITEDに続く第二弾として、Howling Bull Recordsから、約3年半振りとなるアルバム「Total Steel」を12月24日にリリースした。「Total Steel」では、自らのトレードマークである重さや暗さに拘ることなく、よりベーシックなHMに近いものに仕上がっており、とにかく疾走感溢れる“Crumsy Life”や、前メンバー時から存在していた“Total Steel”、個人的には名曲だと思う“One Night King”、CASBAHの羽鳥(Vo)をゲストに迎えたダミ声デュエットが(?!)聴き応えの“Don't Wanna Be Black Days”等の佳曲を多く収録している。

 「Total Steel」リリース後、91年に入ってからは「Total Steel」発売記念ツアーを行ない、SACRIFICEとしては初の大規模な全国ツアーを展開した(過去に、名古屋や大阪には行っていたが、広島や九州は初めてだった)。全国ツアー終了後は、鹿鳴館で名古屋のGESTALTとのジョイントライブを行なったり、89年、90年に引き続いて「March Of The Final Decade」や再度の全国ツアーを行なうなど、ライブを中心に活動を続けてきたが、10月12日鹿鳴館でのHowling Bull Records1周年記念ライブを最後に、館が意見や考え方の違いを理由に脱退してしまう。後任には、千葉のMETALFISTで活動していた鈴木 謙次が加入、10月24日クラブチッタでSODOMのオープニングアクトとして登場し、それが鈴木を加えたSACRIFICEの初ライブとなった。

 新たに鈴木を加入させたSACRIFICEは、92年3月にツアーを行ない、4月上旬からは3rdアルバムの為のレコーディングに突入、6月6日のリリースに向けていたはずだったのだが、製作日程の問題やマテリアル不足などの問題が勃発し、CDリリースは勿論のこと、発売記念ライブも延期となってしまう。結局、3rdアルバム「Tears」は難産の末、8月にリリースされた。HEAVY METAL/HARD ROCK特有のドライブ感が印象的だった前作と比べると、初期の重く暗い雰囲気を漂わせてはいるものの、いかにも疾走型の曲や、まんまNWOBHM調の曲があったりと、各曲単位で見ればナカナカのものなのだが(“Never Land Never Again”や“Time Slips Through In Front Of your Eyes”あたりは佳曲だが…)、前作と比較すると何か全体の統一感に欠けており、どうも印象が中途半端なのが勿体無い。ラストにSTRAPPSのカヴァー“Down To You”を収録している。

 「Tears」発売記念ツアーと、「March Of The Final Decade」を東名阪で行なった後、SACRIFICEの活動は停滞してしまう。92年の残りは目立った活動も無いまま、93年になった頃、杉内脱退というショッキングなニュースが飛び込んできた。このまま、SACRIFICEは自然消滅、残された3人は新しいVoを迎えて、ACE IN THE HOLEとして再出発を計るが、何回かのライブをやった後、鈴木の脱退で消滅してしまう。

 野中は、DEATHBLOWの1stCDやライブにゲスト参加したり、ソロでデモをリリースしていたらしいが、現在の状況は不明。村上もバンド結成に向けて動いていたとの話を聞いたが結局は不明。鈴木は、御存知の通りUP HOLDのDsとして現在も活動中だ。

 SACRIFICE脱退後、全く情報のなかった杉内が、再びシーンに姿を現したのは、6年経った1999年3月20日の事。SACRIFICE時代の盟友、西田と元RIP RIDEの中森(G)と小谷野(Ds)によるSOLITUDEのメンバーとして再び登場したのである。







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