まず、“March Of The Final Decade”創成期のとき(SACRIFICE時代)のお話を伺いたいのですが?
杉内:もともとは・・・CASBAHとRAGING(FURY)と俺達ってのは、それなりに活動も共にしてたし、結構共通点もいろいろあったんで、バンドとしても方向性としても、3つで動いたほうがやりやすいんじゃないか、という感じがして。で、「何かやろうよ」って話を持ちかけたときに、タカ(羽鳥氏/CASBAH)が「“March Of The Final Decade”ってイベントにしようか?」って、タイトル・ネームを持ってきたんだよね。
杉内:3バンドとも、なるべく年に1回、このイベントに焦点を絞るって感じで、それ以外はブッキングが重ならないようにしてたからね、お互い。当時、RAGING FURYもコンスタントにライブやってたし、シングルとか出したり、CASBAHもデモテープ出して、ディールの話があったり、ある意味では油がノってた時期だったと思う。で、回を増すごとに、“March Of The Final Decade”・・・ていうか、この3バンドがやる夏の企画、みたいな認識は高まっていったような気がする。
91年に初めて東・名・阪のツアー形式になりましたが、地方ごとに反応の違いとかはありましたか?
杉内:SACRIFICEは、東京よりもむしろ名古屋で人気があったようなバンドだったから。別に“March Of The Final Decade”に限らず、単独のツアーでも、名古屋では凄い盛り上がりで。地元に帰るような感じだったね。初めてウチらを受け入れてくれたのも、名古屋だったと思うし。もちろん、東京も地元、ホームタウンだということで盛り上がってたけどね。
杉内:うーん・・・もともと好きなことやるためのバンドだったんですよ、SACRIFICEっていうのは。で、まあ、当時あるマネージメントに入ってたけど、そこに入ってたことが悪いことではなくて、今思えばそこで自分たちが流されていったような気がする。いい意味で、そのマネージメントを使えなかった、と。バンドやって、ツアーして、レコーディングして、それでも構わないって考えでやってたんだけど、どこかで歪みが生じる時期でもあったんですよ。そこで、メンバー間でバンドを再統一しようと思ってたんだけど、当時そう思ってたのはメンバー内で自分だけだった、と(苦笑)。そこで、建て前上は俺がバンドを抜ける、という形をとった。で、残されたメンバーとの決まり事として、彼らが新しいバンドをやる際には、SACRIFICEの名前は使わないでくれ、と。その代わり、俺が抜けたという形にしてくれて構わないから、ということで。で、残されたSACRIFICEのメンバーで改名したような形で(注:ACE IN THE HOLE)、バンドが立ち上がったんだよな。当時、自分でもいろいろな事がうまくいかなくて、煮詰まってたというところもあるんだけど。
96年のSOLITUDE結成のときには、ACE IN THE HOLEは活動していたのですか?
西田:93年ぐらいから活動してて、ライブも2回ほどやったんだけど、最初にドラムのケンジ(鈴木氏/現UP HOLD)が抜けて、活動がままならない状態になってしまって。そのうち、ボーカルもシビレを切らして抜けちゃって。村上(G/ex.SACRIFICE〜ACE IN THE HOLE)と2人で「どうしよっか・・・?」って宙ぶらりんな状態になってる時に、ある人から電話がかかってきて・・・杉さん(杉内氏)なんだけど(笑)。「飲みに来い」とか何とか(笑)。で、杉さんも、生活の面でも落ち着いてきたし、「また一緒にバンドやらない?」って。
漠然とした質問かもしれませんが、この“March Of The Final Decade”で伝えたかったこと、あるいは今回伝えたいこととは、何でしょう?
杉内:これ(“March Of The Final Decade”)に限ったことじゃないんだけど・・・ロックバンドやっている以上、どのバンドも主体性を持って、自分たちを見てもらいたいから、納得してもらうように主張してやってますんで、見に来る人たちも主張して、お互いがぶつかり合うようなライブをやりたいと思ってる。そういった点では、なかなか今はそんな機会がないかもしれない・・・よく分かんないけど。バイオにもあるように、俺達はちょっと遠くから離れて(シーンを)見てるようなところがあるから。だから主張と主張がぶつかり合うというか、今回も3バンドにプラス1バンドずつ出るんだけど、そこでどういった主張があるのか、見に来る客側もどういった主張を持って俺達にぶつかってくるか・・・。そういったライブをどんどんやっていきたい。俺たちは・・・ヘヴィメタルにこだわってるつもりもそんなにないんだけど、よく「シーンはダメだ」って言われてるじゃない? でも、離れたところから見ていると、皆ヒトのせいにばっかりしちゃって、自分達は何もしてないじゃないか、って気がするのね。自分達で何も切り出さなかったら、何も始まらないわけだし。今またそれをやってもいいんじゃないかと思う。客が1人になろうが2人になろうが、そういった自分達の主張がぶつかり合うライブを何回できるか、っていうのがあとに繋がっていくんじゃないのかな。そういったことを望みますね、特にこの企画には。
今回の“March Of The Final Decade”で、SOLITUDEに初めて接するオーディエンスもいると思うんですけど・・・。
89年初頭に杉内を中心にex-SABBATのSammこと館 真二(Ds)、村上 裕之(G)、西田 亨(Bs)を新メンバーに迎えたSACRIFICEは、2月の鹿鳴館でのライブで見事に復活を果たし、活動を再開する。この年、CASBAH、RAGING FURY、SACRIFICEという強力なメンツによるライブ「March Of The Final Decade」の記念すべき第一回目が行なわれたのである。翌年、90年5月4日には鹿鳴館にてSACRIFICEの企画ライブ「True Metal Maniacs」を行なうなど、新メンバーで順調にライブ活動などを続けていた。9月末からは2ndアルバムのレコーディングを開始し、UNITEDに続く第二弾として、Howling Bull Recordsから、約3年半振りとなるアルバム「Total Steel」を12月24日にリリースした。「Total Steel」では、自らのトレードマークである重さや暗さに拘ることなく、よりベーシックなHMに近いものに仕上がっており、とにかく疾走感溢れる“Crumsy Life”や、前メンバー時から存在していた“Total Steel”、個人的には名曲だと思う“One Night King”、CASBAHの羽鳥(Vo)をゲストに迎えたダミ声デュエットが(?!)聴き応えの“Don't Wanna Be Black Days”等の佳曲を多く収録している。
「Total Steel」リリース後、91年に入ってからは「Total Steel」発売記念ツアーを行ない、SACRIFICEとしては初の大規模な全国ツアーを展開した(過去に、名古屋や大阪には行っていたが、広島や九州は初めてだった)。全国ツアー終了後は、鹿鳴館で名古屋のGESTALTとのジョイントライブを行なったり、89年、90年に引き続いて「March Of The Final Decade」や再度の全国ツアーを行なうなど、ライブを中心に活動を続けてきたが、10月12日鹿鳴館でのHowling Bull Records1周年記念ライブを最後に、館が意見や考え方の違いを理由に脱退してしまう。後任には、千葉のMETALFISTで活動していた鈴木 謙次が加入、10月24日クラブチッタでSODOMのオープニングアクトとして登場し、それが鈴木を加えたSACRIFICEの初ライブとなった。
新たに鈴木を加入させたSACRIFICEは、92年3月にツアーを行ない、4月上旬からは3rdアルバムの為のレコーディングに突入、6月6日のリリースに向けていたはずだったのだが、製作日程の問題やマテリアル不足などの問題が勃発し、CDリリースは勿論のこと、発売記念ライブも延期となってしまう。結局、3rdアルバム「Tears」は難産の末、8月にリリースされた。HEAVY METAL/HARD ROCK特有のドライブ感が印象的だった前作と比べると、初期の重く暗い雰囲気を漂わせてはいるものの、いかにも疾走型の曲や、まんまNWOBHM調の曲があったりと、各曲単位で見ればナカナカのものなのだが(“Never Land Never Again”や“Time Slips Through In Front Of your Eyes”あたりは佳曲だが…)、前作と比較すると何か全体の統一感に欠けており、どうも印象が中途半端なのが勿体無い。ラストにSTRAPPSのカヴァー“Down To You”を収録している。
「Tears」発売記念ツアーと、「March Of The Final Decade」を東名阪で行なった後、SACRIFICEの活動は停滞してしまう。92年の残りは目立った活動も無いまま、93年になった頃、杉内脱退というショッキングなニュースが飛び込んできた。このまま、SACRIFICEは自然消滅、残された3人は新しいVoを迎えて、ACE IN THE HOLEとして再出発を計るが、何回かのライブをやった後、鈴木の脱退で消滅してしまう。